気功で重症のCS・ESがほとんど完治の状態に ~大明気功メディア掲載記事 CS支援―化学物質過敏症支援センター

気功で重症のCS・ESがほとんど完治の状態に

(CS支援 第25号 2005.6.28 14~15p)
木村 麻莉さん(仮名・元大学講師)

電子ピアノでジャズを弾き、何人もの友達と毎日長いメールを交換する。ストッキングをはいた足に買ったばかりのパンプスを履き、CDショップやジャズハウスに出かける。

こんなことができる日を再び迎えられるとは、1年半前、気功に出会うまで、夢にも思っていませんでした。

私は、2年半前から重症の「化学物質過敏症」「電磁波過敏症」でした。福島の山の中で療養して、かなり良くなったとはいうものの、首都圏ではマスクが手放せず、頭の中がいつもぼんやりとしていて、「もはや自分ではない、自分の抜け殻が生きているだけ」と感じる日々をすごしていたある日、横浜の有名な気功院「大明気功院」との出会いがあり、人生が変わりました。

今では、普通の主婦と全く変わらない生活を送っています。ほぼ完治、と言って嘘ではないと思います。

以前の私のように、過敏症で、絶望の日々を過ごしていらっしゃる方々に、治癒への道があることをお知らせしたくて、ペンをとらせていただきます。

Ⅰ.化学物質過敏症と電磁波過敏症に苦しんだ日々

1.シックビルディング症候群から化学物質過敏症へ

私の過敏症は、職場の新築を原因とする、シックビルディング症候群が発端でした。2002年4月、職場の建物を使用するようになってまもなく高熱が出て、気管支炎の症状が消えなくなりました。症状が悪化する時は必ず新築の建物に入った後であることから、「もしや」と思い、6月に北里研究所病院を訪れたところ、「職場の新築が原因と思われる、典型的な化学物質過敏症」と診断されました。

 

2.電磁波過敏症を併発、化学物質過敏症も重症化

北里で勧められたとおり、温泉治療やエアロビクス、有機野菜を食べる、水に気をつける、などの対応を積極的に実行し、職場でも、私が新築の建物を使わずにすむよう対処してもらったのにも拘らず、2002年秋、職場で集中暖房が入った日を境に飛び火するように悪化し、休職に至ったばかりでなく、日常生活が全く不可能になりました。洗いざらしの古い木綿の服が3枚着れるだけで、古い木綿のTシャツでも、糸がポリエステルだと縫い目に沿って皮膚から出血するほどになりました。オーガニックコットンの下着すら10回洗っても、手を通しただけで皮膚がばりばりになってしまいます。ありとあらゆるプラスチック製品を取り除いた自宅にはかろうじていられるものの、他の建物には全く入れず、道を歩いていても、10メートル先を歩いている人のシャンプーの臭いで頭がぐらぐらになってしまいます。有機栽培のじゃがいもですら、有機認証をとって日の浅いものだと、何かが土に残っていたのか、食べたとたんに口の中が腫れあがったりし、「やがて何も食べられなくなるのでは」という恐怖にも襲われました。

一方で、同時期に電磁波過敏症を併発。パソコン、電話、洗濯機、ありとあらゆる電気製品に、一瞬触れただけで全身が脱力して倒れこむような状態になりました。パソコンと電話が使えない上、紙や鉛筆にさえ反応するため、手紙を書くことすらままならず、周囲とのコミュニケーションもほとんどとれなくなってしまいました。

北里研究所病院まで再診していただきに行っても、30分電車に乗って着いた時はもうふらふらで、座っていることすらできず、待合室のソファに横になって、肩で息をして待っていました。

3.2度の転居と福島での療養

住んでいたのが首都圏の街中だったので、「空気のきれいなところに引っ越せば改善されるかもしれない」と考え、郊外に古アパートを探して転居したのですが、今度は新居近くのPHSアンテナに反応が起き、頭の中に細かい電線が入り込んでのた打ち回るように感じ、神経がぼろぼろになって、歩くのも困難なほどに衰弱してしまいました。

そんな時、福島に「携帯もPHSも圏外」の温泉宿があることを知り、夫に付き添われて必死の思いで移動し、1ヶ月をその温泉宿で、2ヶ月をその近くの空き家だった農家を借りて過ごしました。

その後、夫の仕事の都合もあるので、症状がかなり軽快したところを見計らって、再び首都圏郊外に、築30年の一戸建ての貸家を新たに探して、再度の引越しをしました。

3ヶ月の療養生活で症状はかなりおさまり、北里の再診でも、「療養の甲斐あって格段に良くなっている」と言われはしたものの、冒頭に書いたとおりマスクが手放せない状態で、電車に乗るだけで頭が朦朧としました。デパートや本屋にも何とか行けるのですが、マスクをしながらやっとこさっとこ、という状態です。自宅にいても、同じ場所にじっとしていると、携帯の電波が自分の体にたまってくるのを感じて、落ち着かなくなってきます。特に症状が出ていない時でも、頭がぼーっとしていて、自分が自分ではない感じ。電話もまだ、テブラホンなら何とか話せる、という程度。文章を書くことが生き甲斐であったのに、字を書くことが負担で、奇妙な誤字ばかり書いてしまいます。音楽を聴くのも大好きだったのに、CDプレーヤーがかかっていると、3メートル離れていても気分が悪くなるし、音楽を聴くこと自体が、脳に刺激が強いように思われて、疎ましい。という状態でした。

これでは、生きていても仕方がない。何か、方法はないものか。人生を取り戻したくて、体に良さそうなものは何でも全て試し、必死で情報を仕入れました。北里研究所病院の宮田先生も、「効きそうなものは何でも試しなさい」とアドヴァイスしてくださいました。

そうして出会ったのが、「大明気功」だったのです。

Ⅱ.気功との出会いと現在までの経過

1.「大明気功」との出会い

「大明気功」に出会ったのは、2003年10月末。発病から、一年半経っていました。

歯の詰め物が取れてしまって、東京医科歯科大学のアレルギー科で治療してもらっていたある日、帰りに、マスク姿で、御茶ノ水駅前の本屋に寄ってみたのです。医大の多い地域なので、病気関連の本が充実しているのではないか、と考えてのことでした。そこで、レジ前のワゴンに、平積みになって、「ベストセラー!」の帯がかかっている青島大明先生の著書を目にしたのです。講談社から出版されている「病気がすべて治る『気』の医学」という本でした。

著者の青島先生自身が、中国でトップ中トップの名医に見放された指のヘルニアを、通りすがりの気功師にたった5分で治してもらい、それが気功との出逢いだった、という話。「気」を情報として捉える、斬新な気功論。さまざまな難病の、具体的な治療例。

「これだ! 治るならこれしかない」と直感しました。

巻末に、青島先生の気功院の案内が書いてあったので、問い合わせてみたところ、護持会費が2万円とのこと。夫に話すと、「高い。気功なんてうさんくさい。やめろ」と言われましたが、2~3日迷ったあと、「やはりこれしかない」と自分で結論し、夫に黙って振り込みました。大正解でした。

今では夫も気功院に通い、病気でもないのに毎日せっせと気功をしています。「体が変わるのがわかる。こんな素晴らしいものはもうやめられない」と話しています。

2.最初の感触

予約を入れたものの、患者さんが多いために、最初の施術はなんと3ヶ月後の2004年1月28日。待ちきれず、問い合わせたところ、「学習会」というものがあることがわかり、まずそれに参加してみることにしました。

「学習会」は、気功についての正しい認識を学ぶ勉強会。青島先生の講演という形で、毎回、ある病気をテーマに、気功でより効果的に治すにはどうすればよいかが説明された上で、「大明気功」の二本柱、「静功」と「動功」を練習します。

私はそこで、「静功」と、「動功」の一番簡単な形だけ習って、家で実践してみました。すると・・・驚くほどの効果!「静功」をしていると、頭の中に立ち込めていた霧が、少しずつ、少しずつ、晴れていくのが感じられたのです。

他の、どんなことを試しても、決して得られなかった感触でした。

自分の直感は正しかった、これで治る、と思いました。

3.「治る」までの、1年半の間の経過

その後、定期的に施術を受け、「静功」と「動功」を習って、家でも毎日、せっせと気功を実践しました。「動功」は、全部で64の型があるのですが、去年の秋には全てマスターして、今も毎日、一日に4回、ほとんど欠かさずに続けています。

最初の「治る」という感触から、現在の、「ほぼ完治」の状態になるまで約1年半かかったわけですが、その間は、「治っちゃった」と思う時期や、時に「また、こんな症状が出ちゃった」とがっかりする時期が、交互に現れながら、少しずつ、少しずつ、完治に近づく、という印象でした。治っていく過程の中で、特に重要と思われる変化をいくつか、記しておきます。

2004年2月 北里の再診で、瞳孔に光を当てて収縮する速度を測定する検査をしてもらい、改善が見られた。

6月 パソコンが使えるようになる。以後パソコンは毎日使っている。

7月 新幹線「ひかり」で東京から大阪に行く。最初、新幹線の電磁波に反応したが、反応が起きた際に実行するよう青島先生から指示されていた気功法を試みたところ、たちまち大丈夫になる。そのまま中国地方、近畿地方を10日近く元気で旅行し、帰りは「のぞみ」で全く反応が出なかった。

8月 呼吸器から「悪い気」を出す気功法を習って実践したところ、信じがたいほど頭が楽になる。

同月 北里大学病院の再診で、平衡機能検査の結果、正常値の範囲内に入っていた。またこの頃、ストッキング、ポリエステル100%のスカート、パンプスが履けるようになる。

秋ごろ 1年前着れなかったウールのセーターが着れるようになったばかりか、買ったばかりのポリエステル100%の服も、全く洗わずにそのまま着れるようになる。以後衣類に関して一切の反応が出なくなる。

12月 電子ピアノ、CDが全く反応なく使えるようになる。

2005年3月 北里の電話再診で、「過敏症は卒業」と言われる。

5月 お化粧ができるようになる。お化粧は、過敏症になる前から、極端にかぶれやすく、ほとんどできなかったのに・・・。それまでは、「化学物質の臭いや電磁波の存在はある程度感じるが、反応は起きない」という状態だったが、いよいよ、「化学物質の臭いも電磁波の存在も全く感じない」状態になってくる。つまり、病気以前の体が戻った。思考能力についても、それまでは、「元通りではない」と感じていたが、ほぼ「元通り」と判断。体験記を書くだけのエネルギーが取り戻せた。

4.現在

冒頭に書いたとおり、今はほとんど健康体といっていい状態で、しばらく遠ざかっていた人生の喜びを取り戻しています。仕事を辞めてしまっているので、毎日遊び暮らしているように感じることがあり、そう感じるたびに「ああ、治ったのだ」と実感します。病気と闘うだけで精一杯だった頃から思えば今の生活は信じられませんし、今から振り返ると、過敏症が重症だった頃のことが、なにかの記憶の間違いのように感じられることすらあります。

残念ながら、化学物質過敏症の患者はまだ私一人なのですが、電磁波過敏症の患者さんは既に8人ほど通っていて、全員が改善しているとのことです。初回は気功院に来れず、出張施術をしてもらった患者さんでも、2回目からは電車に乗って通われるそうです。